歴史

中田の棚田

中田の棚田が記録されている最古の文献は、1425年に記された「天野社一切経会段米納日記あまのしゃいっさいきょうえたんまいおさめにっき」です。この「天野社一切経会段米納日記」とは、高野山金剛峯寺が、鎮守である天野社(現 丹生都比売にうつひめ神社)で行われる一切経会という法要を行うための費用を、寺領の村に割り当てた記録です。この記録には、中田村には2斗1升(約31.5kg)の米の徴収が割り当てられているとあり、1400年の初期には中田村に水田が存在していたことを示しています。また、中田村に割り当てられた2斗1升という量の米は、約14町(約140000m2:東京ドームおよそ3個分)の水田が存在しないと負担できないと考えられているため、当時広大な棚田が広がっていたと推測されます。


竜王水

竜王水は、中田地区の棚田とその隣にある梅本地区の棚田の一部を灌漑する用水路です。この用水路は長さ約600mで、手掘りの溝とパイプ管によって構成されており、生石ヶ峰の豊富な谷水を中田地区、梅本地区へと導水しています。竜王水が記録されている最古の文献は1848年に記された「立岩大聖不動尊縁起たていわたいせいふどうそんえんぎ」であり、この記録から約200年間、地域の水資源を支えてきた貴重な土木遺産であることがわかります。